前夜 〜プロローグ〜



オレたちの朝は、夜、はじまる。
人々が一日の仕事を終え、その日の疲れを癒すべく、思い思いの場所へ足を向ける…そんな時間に。
酒場の商品は、なにも酒だけではない。
客の話に付き合うのも、料金のうちだ。
そこには、いろいろなものがうずまいている。
愚痴、喧騒、空威張り…自慢話や、下世話なジョーク。果ては失恋の話やらガキの頃の話まで。人はそれ らを酒に溶かし、想いを摘みに、飲む。
そんな淋しがり屋たちの言葉に耳を傾け、ひとこと。
さり気なく、それでいて的を射た、そしてなにより気の効いた台詞を返す。
これをサラリとやってのけるのが、一流のバーテンダーというものだろう。
オレはまだ、そんな境地には達していないが…。
馴染みの酒屋から運ばれてきたワインやエールの樽を蔵へ移動させ終わったオレ――リッカート・モラニ スは、とりあえず一休みとばかりにカウンターに入った。
棚からブランデーの瓶と、木製の細いコップとガラス製のグラス――親父さんは、ピルスナーっていって たか――を取り出す。
この酒場『紅熊亭』には、みっつの名物がある。
ひとつは、マスター。何でも昔は腕利きの冒険者だったらしいんだが、自分の過去については語ろうとは しない。客との会話と、紅熊というふたつ名に、その面影を残すのみだ。ふたつめは、ウェイトレスのキャ シィ。家出同然に生れ故郷の街を飛び出したという不良娘だ。生意気この上ないのだが、根は真面目ないい ヤツだ。器量も、まぁ悪くないので、『紅熊亭』のアイドル的存在――多分にジャジャ馬なアイドルではあ るが――となっている。
そして、みっつめが、今オレがつくっている酒だ。何でも親父さんが昔、北方の国で教わったらしいんだ が、何種類かの酒を混ぜ合わせて、新しい酒をつくるという一風変わったもので、名をカクテルというらし い。これが随分と好評で、遠くの方からこの酒目当てで来る客も少なくない。もちろん、それぞれの酒の比 率やら何やら、色々と難しいところがあり、オレはまだ客をつくらせてもらっていない――客に出す酒や突 出しは全部親父さんと女将さんでまかなっている。
だが、そんなオレも、一日に2杯、人に飲ませるカクテルをつくらせてもらえる。
ブランデーにホワイトキュラソー、そしてレモンジュース。
これを仕事前につくるのが、ひとつの習慣となっている。
「…ふむ」
厨房での仕込みを終えた親父さんが、オレのつくったカクテルを片手に、めずらしくうなずいた。
「いいだろう。明日からは、マルガリータでもつくれ」
それだけ言ってピルスナーを空けた親父さんは、その言葉を理解できないでいるオレを後に、厨房へと戻 っていった。実感が込み上げてくるのには、少しばかり時間を要した。
「ふぁ〜、おはよ」
あくびをかみ殺しながら、キャシィが彼女の寝室のある二階から降りてきた。
「よう、キャス」
「どした? ご機嫌だぁね」
オレが嬉しげにさっきの出来事を語ると、キャシィはたいして興味もなさそうに、
「そりゃ、おめでと…ふぁあ…かお、洗ってくんね」
「ほい、タオル」
「さんきゅ」
キャシィの出ていった戸口から見える空は、もう薄紫に変わっていた。夕陽の光も、弱くなってきている。 仕事帰りの人々の喧騒も、次第に大きくなっているようだ。
オレは手早くグラスを洗った。
それらを棚に返す。傍らには木製のジョッキが並んでいる。その表面に施された彫刻、
“Ice Breakers”
この言葉には「人との出会いの緊張を和らげ、座を和やかにするもの」という意味があるらしい。親父さ んが一つ一つ自らの手で彫ったものだ。
親父さんは何も言わないが、人と会うのが楽しみで、この酒場をやっているのだろう。
そうしてるうちに、肩にタオルをかけたキャシィが濡れた髪をまとめながら入ってきた。親父さんも厨房 から出てくる。
「さぁ、そろそろ客が来る。今日もしっかり頼むぞ」
「はい」
「はぁい」
今日も『紅熊亭』の一日が始まる…


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