第四夜 〜紅 熊 亭〜 著:ふら まさと
「リック、俺はもう寝る。あと頼むぞ…」
「はいマスター」
そう答えてから、小一時間。
店じまいをした後の酒場というのは、不思議な空間だ。何もかもすっかりかたづけて、がらんとしている
はずなのに、何というか、空中のそこかしこに食べ物や酒の「気」みたいなものがわだかまっていて、微妙
にずれて向かい合っている机や椅子たちが今にもしゃべりだしそうに見えてくる。
洗い物でふやけた指。
がとっ、がとっ、みしっ、がとっ、
俺は夜明け前の肌寒い暗闇の中、『紅熊亭』の二階へ上がった。
今日はもう、くたくただ。店がいつにもまして忙しくて、一服する暇もなかったが、空腹感もこの疲労に
押しつぶされてしまったようだ。それに、まだもうひと仕事のこっている。
「起きてるか」
持っているトレイを傾けないよう注意しながら、俺は背中でドアを押し開けた。
「ノックしないの」
「誰のおかげで二人分働いたと思ってんだよ。明かりつけてくれ」
キャシィだ。彼女は今朝、突然風邪をひいて起き上がれなくなってしまったのだ。代わりといっても『紅
熊亭』ではアルバイトを抱えていないので結局、俺とマスターにしわよせが来る。
暗闇の中にぼんやりと生まれたランプのやわらかい光が、ゴールドラムの小樽とキャスの手と顔だけを浮
かび上がらせた。
「なによ、それ。酒で口説こうってつもり?」
「馬鹿言え。風邪薬だよ」
ランプのそばにトレイを置き、部屋の隅にあった椅子を引っ張ってきた。
「へえ、お医者さんごっこですかぁ?ふぁ〜あ」
キャスは体を起こして枕を背中に当て、それから大きなあくびをした。熱を計る。
「もう、だいぶ下がったみたいだな」
「ん〜んっ!はあ〜。もうぜんっぜん元気!今からでも働いて見せるわよ♪」
あらかじめ温めておいた木製コップに角砂糖を入れ、少量の熱湯で溶かす。
「よく言うよ。こちとらもうくたくただぜ」
ラムを注ぎ、熱湯を加えて軽くステア。
「ふふん、リックったら、あたしがいないとなんにもできないんだから」
まだ熱っぽい顔をして、おおげさなモーションでキスを投げてよこす。
「やめてくれ。風邪がうつる」
手で払いのけるしぐさをして、照れくささをごまかす。俺は、これがキャスの「ありがとう。ごめんね」
のささやかな感情表現だと受け止めた。このひねくれたキャシィとやっていくのは楽ではないが、そうだと
わかってやればこれはこれでかわいいものだ。「あいかわらずうぶねぇ。あ、マスター、何か言ってた?」
「別に。いつもどうり、なんにもだ」
バターを浮かべ、スプーンを添える。ラムとバターの香りが湯気にのってたゆたい、俺の体まで温まって
きそうだ。好みによっては、これにシナモンの粉末を加えることもある。
「さ、これ飲んで、あしたは出てくれよ。マスターはともかく、俺の方がまいっちまう」
「わ、あったかーい。なんて名前?」
「ホット・バタード・ラム。風邪の特効薬だ」
「マスターに?」
「いや、俺の親父だ。それがよ、親父もひどい酒飲みでさ。さんざんかっ食らったあと店を追い出されて、
うちに帰りつけずに道端で寝ちまうだろ、次の朝、風邪ひいてふらふらしながらやっと帰ってきたと思った
ら、おふくろに湯沸かさせて、こいつを作ってたんだ。飲みすぎたくせに、また飲むなんておかしいと思っ
たから、俺が『それは何だ』って聞いたら、親父は『エリクサーだ』って答えたね。はは。マスターにこの
話をしたら、名前を教えてくれたよ。おふくろの方は、『冷たいほうがいいだろ』って、ブランデーとホワ
イトラム、あとミルクに卵を使った……ん?」
しまった、少ししゃべりすぎたようだ。
「そんな話、つまんない」
キャシィは、家族や家庭については話すのも話されるのも大キライだ。
「『あれとこれをこの割合で混ぜて香りを引き立てるためにそれを』なんて言ったって、あたしにとっては
全部チャンポンよ。ひけらかすのはやめてほしいわね。だいたいあんたは…」
彼女は十四のときに親元から逃げ出したのだが、その原因は俺たちがはかり知れないほど深いものらし
い。前にマスターが「親は子の元気な姿が見たいもんだ」とそれとなく水を向けたら、そのあと一週間も
口をきかなかった。俺が「手紙でも」って言いかけたら噛みつかれた。俺も両親とは十四才で死に別れた
が、楽しかった思い出しか記憶にないから、キャスの心中を察してやることはできない。
「わかった。いや、俺が悪かった」
意味もなくただあやまるしかない。ひとつ屋根の下で暮らしていながら、話を聞いてやることもできない
無力な自分。まったく、俺は役立たずな奴だ。
「おとっつあん、それは言わない約束でしょ」
ころっといたずらっぽい表情に変わって、くすくすと小さな女の子みたいに笑い出す。
「それはそうと。ねぇおにいさん。お礼にいいものあげるわ」
今度は艶っぽい大人の女に変身する。どんな深い傷をそのちいさな胸に秘めているのかは俺の理解を越え
ているが、キャスは常にその傷を隠すためにさまざまな仮面を巧みに使いこなす。酒場の客にはその変身ぶ
りが面白いかもしれないが、俺の目には痛々しく映るばかりだ。
「はい、どうぞ」
さっき使ったコップには、コハク色の液体がなみなみとつがれていた。
「なんだこりゃ」
「何だと思ってるのよ。ただのお茶よ。昼間、おかみさんが持ってきてくれたの」
にこっ、とかわいらしく微笑う。これも仮面か。演技だとわかっていても、悪い気はしていない単純な自
分。まったく、俺はなさけない奴だ。
「ああ、もらっとくよ。じゃあ、おまえも目、つぶってじっとしてるんだぞ…」
使ったものをまたトレイにのせて、俺は一階に下りてきた。コップやなんかは、すぐに洗わないとにおい
が染みついてしまうのだ。
コップの中で、コハク色の液体がゆっくりと波打っている。空気はずいぶんと冷えこんでいるが、窓はす
でにブルーのかすかな光を放っている。あと数時間で日が昇ることだろう。
キャスの奴、今日はやけに素直だったな。あいつもやっぱり寝顔だけはかわいい。ずっと風邪ひいてりゃ
いいのにな。
ひと息ついてみると、ひどく喉が渇いていた。今日も忙しかった…
「うっ!」
喉が、舌が、腹の底までヒリヒリする痛みがほとばしった。空きっ腹に喰いつくアルコール。
しまった。油断した。こいつは…ワイルドターキーか?アルコール濃度五十パーセント以上のひどいウイ
スキーだ。ボトルド バイ ジ オースティン・ニコルス、ケンタッキーストレートバーボン、ラベルに七
面鳥の絵が…
「あいつ…なんでこんなもん持って…」
俺はカクテルは好きだが、実はストレートの酒にめっぽう弱い。ほんの一瞬で足から指先、脳髄のすみず
みにまでまわってしまうのだ。
ぐらり。
手をつこうとしたが、もはや自分の腕がどこについているのかすらわからなくなっていた。
マスターを起こさないようにゆっくり倒れようとおぼろげに思いながら、流しのへりに頭をぶつけた。
濡れタオルを通したような鈍い感触。気持ちいい。ああ、俺って無力…
次の日、キャスが俺の部屋のドアを背中で押し開けて入ってきた。
「はぁい、起きてる?」
「酒で口説くつもりかよ」
『紅熊亭』の朝は、夜、はじまる。
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