2002.1.29.

 しりとりと古今東西は反目し合っていた。
 互いに相手の存在を不快に思い、ことあるごとに衝突することからもそれは明らかであったし、だがその様子はむしろ「憎み合っている」と言い換えてもいいほどであった。

 確かにこの2人がいがみ合うのも無理のないことではある。類似した特徴をいくつも持っているのだから、相手のことを無視することなどできるはずがない。
 意識するしかない以上、それは好悪いずれかの感情に帰結するわけであるが、しかしことあるごとに比較される彼らに親密な感情の芽生えようはずもなく、従って彼らは憎み合うより他にないのであった。

 退屈なときになんとなくはじまる、というようなしりとりのスタンスを 古今東西はずっと羨ましいと思っていたし、場を盛り上げるために罰ゲームとセットで大騒ぎ、という遊び方が常である古今東西を しりとりは妬ましく思っていた。例えそれが「隣の芝生は青く見える」という、誰もが浮かされる熱病のような感情だということがわかっていてさえ、彼らの心に燃えさかる炎が鎮まる気配は一向になかったのだ。

 だからといって、彼らが相手をまったく認めていなかったというわけではない。いかに憎み合っているとはいえ、知性の閃きを重要視する2人であってみれば、怒りからその本質を見誤るなどあってはならぬことであった。大したヤツだ、と彼らはお互いに相手のことをそう思っていたし、それを口に出して言うことも多かった。
 ただ奇妙なことに、相手のことを認めれば認めるほど、その憎しみはいや増すばかりであるらしい。いくら頭では認めていても、心は、感情は別物だということなのであろう。


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 倦まず憎み合うこの2人には、実は(しかしもちろん当然ながら)優劣などというものは存在しない。
 一体誰が、スプーンとフォークに優劣をつけたりするだろうか? 簡単に言ってしまえば、彼らの争いとはこの程度のことであり、その馬鹿馬鹿しさはスプーンが自分に串がないのを嘆き、フォークがスープを掬えないと言って泣くのに似ている。

 ルールも違えば、要求される能力も違う。浮世に数ある遊戯のうちの、彼らは単に2種に過ぎない。いくら論を戦わせ 角突き合ったところで、「どちらがより優れているか」などというものに答えは出ないし、また 出なくて当然なのだ。


 だが、しりとりと古今東西、どちらがより好ましいか、ということに関してならば───もちろんぼく個人に関してのみではあるが───



 既にその答えは出したつもりである。



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