2002.2.20.

 海の果てにある島に、世界のあらゆる事象をその瞳に映す大鷲がいる。

 そういう伝説が昔、アラビアのとある地方に伝わっていた。彼女は百の目を持つ偉大な鳥で、シテという名を持ち、法や知識の象徴とされる。別の地方では美しい女神として描写されることもあったようだが、ここではその説は採らない。銀色の翼と真珠色に輝く百の瞳を持つ大鷲───そういう神がいたのだと、そのように理解してもらいたい。 別に外見などどうでもいいのだが。

 とにかく、一瞬のうちに世界の出来事をつぶさに見るという大鷲の話があり、その地に住む人々はこれを固く信じていたわけである。地の底に眠る大長虫や、大陸の半分を覆う宇宙樹や、天候を自在に操る双子の兄弟を信じたのと同様に。

 大鷲の瞳は、瞬間で何もかもを映しだし、しかもそれを知覚させるのだという。どのようなものもこの大鷲の目を欺くことはできず、彼女の前に不正はあっという間に看破され、鋭い鉤爪が(あるいは嘴が)その者に襲いかかる。なるほど彼女が法の象徴となるのももっともなことだ。

 しかし、と先人は警告する。我々はその瞳を決して覗き込んではならない。 神であればこそ免れている非合理の深淵に落ちこんでしまうからだ。大鷲の真珠色に輝く瞳は、自身が映しだした像を覗き込んだ人間に知覚させずにおかぬ。そして瞳が映しだす像とは「世界のあらゆる事象」に他ならない。

 であるならば、その瞳が映しだす「その瞳が映しだす像」もまた、我々の知覚するべき事柄になるわけである。合わせ鏡の構造に近いと言ってもいいであろう。しかしここで問題になるものは何かと考えると、自ずから、しかしはっきりと、そのありふれた構造とは別のテーマが浮かび上がってくるのである。

 我々が大鷲の瞳の中に同じ瞳を見、さらにその中に瞳を見……という状況は、多少の想像力があれば思い浮かべることができる。しかしそれを知覚する、となるとどうだろう。我々は無限の縦穴をどこまでも落ち続けていかなければならないことになる。

 あるいはここまでも、光景としては容易に想像できるかもしれない。瞳を覗き込んだまま石のように固まってしまった人間の姿を思い浮かべればよい。もはやこうなってしまっては、誰かが(何かが)視線をさえぎらなければ、永遠に無限の連鎖から逃れることはできない。なぜなら瞳はその果てを知ることを強いるからである。

 しかしそれが一瞬のうちに行われるとはどういうことかというと、それを想像することができないことに、我々は気づく。一瞬を無限に分割したものは一瞬なのか永遠なのか。誰かが瞳(の中の瞳)を覗き込み、よしその呪縛から解放されたとして、その時すでに彼は無限を知覚している、というのだろうか。では無限には果てがあるのか。


 これが有名な「シテの瞳のパラドクス」と呼ばれるものである。この矛盾は非常に長い間、数学者には無視されてきた。その前提となっている大鷲云々が、そもそも存在しないではないか、という一事によってである。そして仮にそういうものの存在を仮定したとしても、そこに矛盾が発生するならば、それは仮定が間違っていることを証明するに過ぎない。


 こうして、神は死んだ。 鈍く光る論理の刃によって。大鷲はその存在を否定され、人知れず朽ち果てる。海の果ての島でひっそりと滅んでいくその美しい鳥は、真珠色に輝く百の瞳を最後にひときわ煌めかせ、地に落ちるのだ。

 誰の目にも触れることなく消え去った彼女───その偉大な大鷲の亡骸は、やがて地に還るだろう。しかしその瞳は力を失わず、遠い海の果てでそっと輝く。



 けれども我々は、その瞳を決して覗き込んではならないのだ。




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