2002.5.15.


 騎士ケンエイムヒェンの悩みというのは、こうだ。


 そもそも聖杯というのは古くからこの国に伝わっていた祭器だったが、それが数百年前の戦乱、そのさなかに城の宝物庫から失われたのだった。聖杯の奪取はつねに歴代の王の悲願であり、国民全員の望みでもあった。

 聖杯が奪われたときはなにしろ戦争の只中であったから、騎士団も城を守る兵士たちもその大半が城を空けていた。その隙をつき、宝物庫に狡猾な盗賊団が入り込んだのである。彼らは不吉な影のように現れ、聖杯と一振りの剣、そして古ぼけた櫃だけをすばやく持ち去り、誰にも気づかれぬまま再び夜の闇の中に帰っていった。

 その品々は、彼らの雇主であった暗黒教団の教主の手へと渡った。彼はこれら祝福された宝物をありとあらゆる手段で汚し、その神性を喪失させようと目論んだのだ。だが、大陸でも特に名高いそれらの品々が堅牢な城の地下を抜け出したことに気づいた存在があった。

 宝物に対する類稀なる嗅覚、その飽くなき貪欲さを伝承にも歌われた竜は、山奥に隠れ住む教団の塔に鼻息も荒く襲来し、そのすべてを完膚なきまでに叩き潰すと、新たなコレクションを大きな顎に優しく咥え、棲処へと飛び去った。


 ……だから今でもまだその竜のもとに聖杯はあるはずなのだ。王はケンエイムヒェンにそう語った。竜が討伐されたという話は聞かないし、伝承に名を残すほどの竜、並の勇士では太刀打ちできまい。
 ゆえにおまえに命じるのだ、王国随一の騎士よ。おまえならば必ずやかの竜を討ち果たし、聖杯を手に凱旋するだろう。

 ケンエイムヒェンが年老いた王の期待に応えたいと思ったのはもちろんである。困難な探索、伝説への挑戦、竜との戦い、どれをとっても不足はない。この探索を成し遂げれば自分の名声はいや増すであろう。

 だが、彼は悩む。

 というのも、当の聖杯──国中がこの数百年捜し求めたがついに見つからず、その行方が杳として知れなかった聖なる遺物は、彼の家の食器棚に、ほかの何の変哲もない食器たちと一緒に、その正体を彼以外の誰にも知られることなく、ちょこんと並べられているからだ。

 そこにどのような物語があったのか、彼には想像もつかない。だが父が祖父が、そして何代にも渡る先祖たち──ケンエイムヒェンと同じように騎士であった彼らが、この聖杯に気づかなかったはずはない。では何故だれ一人として聖杯ここにあり、と王に献上しなかったのか。その理由ならばケンエイムヒェンにもわかる気がするのだ。

 竜が手元に置いているはずの聖杯、伝説の中で幾度となく登場する聖杯、聖人が天に昇るとき特に選んで祝福した聖杯、いくつもの伝承、語り継がれる歌。
 それらすべてが色褪せてしまう、と彼らは思ったのではないか。

 ではおれもそれに習おう、とケンエイムヒェンは思う。 伝承を、歌を、物語を、神秘の暗がりから引きずり出すには及ばぬ。見つかるはずのない聖杯を求めて、おれは探索の旅に出ようではないか。


 そして決して果たされることのない使命を胸に一人旅立ったケンエイムヒェンは、様々な不思議を目にし、諸々の怪奇に怯え、常の人であればついぞ体験することのない数々の冒険を行うのだが──



 それは彼が守ろうとした、伝承や歌や物語の、新しい始まりなのだった。



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