| 2002.1.18. |
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「その男の方向音痴なことといったら大変なものだった。」と老人は話し始めた。 ───── (以下、老人の話) その男の方向音痴なことといったら大変なものだった。 なにしろ、まるっきり方向感覚というものがないんだ。「次の角を右」と言ってるのに左に曲がったり、直進したり、引き返したりする。で、たまにちゃんと右に曲がるんだ(だから余計にややこしくなるわけだ)。 ふざけてやっているわけじゃないし、記憶力になにか問題があったわけでもない。方向音痴ということ以外におかしなところは何もないんだ。ただそれが圧倒的だったというだけのことだ。 だけど、その絶望的なまでの方向感覚のなさが問題だった。彼はそれのおかげで会社をクビになったり、恋人にフラれたり、友達を失くしたりした。理由は色々だったが原因は一つだった───つまり方向音痴のせいだった。男だって、別になりたくて方向音痴になったわけじゃないのにな。 とは言っても、欠点がそれだけならなんとか生きてはいけるものだ。それに欠点と言ったって人を傷つけたりする類のものじゃない。ただ、道に迷うだけだ。おとなしいもんだよ、……そうだろう? そんなわけで、男はやがて自分にピッタリの仕事(つまりほとんど外出しないやつだが)を見つけ、自分をよく理解してくれる恋人に出会い結婚し、そして何人かの気のいい友達とは相変わらず仲良くやっていくことができた。要するに、男は自分の居場所を見つけたんだ。彼は幸せだった。 しかし男は、その生活に満足していながら、どこかもの足りなさを感じることがあった。それがなんなのか彼にはわからなかった。幸せを手に入れながらそれに満足しない贅沢な自分を、男は呪った。 だが、彼にはいつまでも自分を偽り続けることはできなかった。本当は男にもこの気持ちがどこから来るのか……自分が何を求めているのかわかっていた。わからないふりをしていただけなんだ。 旅だ。 彼は旅が、それも一人旅がしたかったんだよ。 どうして男がそんなことを考え出したのかはわからない。彼自身にもわからなかった。あるいは自分には絶対にできない、とわかっていたからこそ憧れたのかもしれん。 しかし、どだい無茶な話だ。どうやったって道に迷ってしまうことは目に見えてる。なにしろ近所どころか、自分の家の中でだって時折迷うほどの方向音痴だ。もちろん誰もが反対した。下手をしたら道に迷うどころの騒ぎじゃない。それほどに男の方向音痴というのは凄まじいものだったんだ。妻も反対したし、友達も反対した。旅なら我々と一緒にすればいいじゃないか、とみんなは口々に言った。 男は辛抱強くみんなを説得した。これが自分のわがままだということは重々承知している。そして君たちの申し出は大変ありがたく思う。だけどダメなんだ、ぼくは一人きりで旅がしたいんだ。理由は自分にもわからない。でもそれはぼくにとって非常に重要なことで、それがぼくにはわかるのだ、と。 説得には長い時間がかかったが、彼はなんとかみんなを説き伏せることができた。しかし、それにはさまざまな犠牲を必要とした。男は妻と、それから友達の大半を失うことになった。 馬鹿な話だよ。男はそんなことを言い出すべきじゃなかったんだ。でも彼はちっとも後悔していなかった。旅への情熱と若さが、なにを踏みにじっても顧みないような傲慢さを男に与えていたんだろうな。 そして男は、とうとう旅立った。 ───── そこまで言うと、老人はウィスキーを(一体それは何杯目だったろう)ぐいっと一息に飲み干した。 私は訊ねた。「それで、その人はどうなったんですか?」 空のグラスをじっと見つめながら、老人は答えた。「どうなったかって? 決まってるだろう。そのまま帰ってこなかったのさ。こいつはわしの予想だがね、おそらく奴は最初のホテルにさえたどり着けなかったに違いないぜ。なにしろ自分の家の中でさえ迷ってるような男だぞ。きっと今もどこかで道に迷ってるんだろうよ……」 私は話の続きを待ったが、老人はそれ以上話す気はないようだった。彼は上着のポケットからくしゃくしゃのお札を取り出して、カウンターに置いた。 「すまんが、足りない分は出しておいてくれ」 私が頷くと、老人は真っ赤な顔でにっこりと笑い、「では、またな」といって席を立った。彼はトイレの扉を開き、厨房への扉を開き、最後にやっと入口の扉を開くと、私に手を振って出ていった。 私はそれをなんとなく見ていたが、急におかしさがこみ上げてきた。 ───ああ、つまりそういうことなのか? |