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このサイト、つまりあなたが今ご覧になっている、桶や獅子やオーケストラや牛が揃ってミュージカルを演じる、このすでに緞帳が半分降りかかっている奇妙な舞台を、チケットを買い見に来てくれた人々、並びに、ちょっとした好奇心から、あるいは単に道に迷って今この文章を読んでいる人々、そういう多少奇特なところのある、または不思議にねじれた運命に支配されているみなさんに対して、この劇団の役者たち、すなわち意味を付与された記号、つまりは活字たち、あるいはそれらが見せるダンス───いわゆる文章というものによって、ぼくが抱いているこの感情を伝えることができたとしたら、どんなにか素晴らしく、なんとも幸せであり、正しく夢のようではないか、とぼくは思うのだ。
けれども現実には、言葉はただ喚起し、何事かを伝えることなど決してありはしないし、そしてそれは、まったく残念かつ気落ちせざるをえない事実なのだ。しかし、それがぼくにとっての現実だとすると、ではぼくのこの悲しみすらもあなたに伝えることはかなわず、ただぼくの文章があなたの何かを揺り動かし、呼び覚ましたとすれば、それをもって初めて文章の伝達手段としての側面をぼくは肯定することができ、そしてぼくもまた他の人々と同じように「何かを伝えるために文章を書く」という常識を獲得するのではないか、とそう感じるのである。
文章を書くものは誰もみなそうして足掻き、多かれ少なかれ問いかけるのではないか、とぼくは思う。ぼくたちは盲目的に信じるところから出発し、だが演目の途中で気づく。客は悲しい場面で涙し、おどける道化に笑い転げる。けれどもそういう種類の人間が必ずしも観客のすべてではなく、むしろ彼らの大半は、演じられているものの意図をほとんど理解していないということに───そしてそれと同時に彼らが理解していないと理解することこそがぼくたちの不理解なのであるということに。ぼくたちが何かを意図して演じたとしても、そんなことは観客の知ったことではない。演出家は客にある感情を想起させるために物語を、音楽を、振り付けを考え出し、それを観た人々は揃って自分の中に潜っていくが、そこでなにを見つけるかは観客次第なのだ。
だからこのサイトにある文章は、すべてそういう意図のもとに書かれているといってよい。前述したすべてが──わかりにくいかもしれないが──ぼくが思う文章というもののあり方であり、そこには日記・物語の別はない。ただしかし了解しておいてもらいたいのは、これらもまた文章であり、その意図がいかなるものであれ、それが正確にあなたに伝わることをぼくは期待していないという点だ。
だが、そうなると、一体どういうことになるのだろう。ぼくにはすっかりわけがわからなくなってしまう。文章は喚起するものであって、伝達手段ではないという内容を伝達する文章、その立場やいかに?そしてこの困惑すらもあなたに届かないというこの矛盾!
しかしね、それこそが、この矛盾こそが、要するにこのサイトというものなので、あなた方はなにも心配する必要はない。それがなにを呼び起こそうとしているのか、演出家の意図はどこにあるのか考える必要もまったくない。ここにはただ混乱があり、そしてその状態こそが正常なのだ、ということなのだつまり。結局のところ、文章の特性などはどうでもよいのだった。
それがなにかを伝えようが伝えまいが、ぼくがいくら頭をひねって考え、よし答えが出たとしても、その答えはその疑問と同じくぼくにのみ付随するので、そんなことを聞かされるあなたはたまったものじゃないかもしれない。 よくわからない。でもたぶん、というか、ぼくはそう思うのだ。
そういうようなことをぼくはあなたに伝えたい。えーとつまり、このサイトにある文章はすべてあなたの自由に読んでくれていいのですよ、ということを。
要するに、文章というものはただ喚起し、伝達するものではない、という文章を伝達する、といったような矛盾をはらんだ文章こそがこのサイトの特徴であり、だからあなた方はこのサイト上の文章が何かを伝達しようとしているのではないか、などということは考えずに、ただなにかを想起すればよいのだ、ということをぼくはあなたに伝えたい、ということなのだ。
やっとまとまった。
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