2002.7.4.


 気の遠くなるほど広大な森林、鬱蒼と茂った緑たちの版図、まるで世界をも飲み込んでいるかのようなその無辺に広くどこまでも暗い森の奥に、一人の少女と一匹の獣がひっそりと住み暮らしていた、としよう。
 少女は美しく、獣も美しかった。もちろん互いに異なる種類の美であったとしても、そう想像し決めつけ表現することは一向問題ではない。そしてまたこの表現から連想されるイメージは、限定されるために無限であり(これは矛盾だろうか?)、それは必要なことだった。したがって描写はいつもここで途切れる。
 けれども実際に森の中へと足を踏み入れ、そこが薄暗く危険な世界であることを認めた者にそのような幻想は抱けないかもしれない。森の奥に住み暮らす美しい少女と気高い獣。その心に響く美しい絵、そんなものは夢に過ぎないと、苔生した岩の上で夜に怯えながらそう思わずにはいられないのだ。

 では少しだけ譲歩しよう。どちらか一方で構わない。森の奥、時の刻むことも知らず、まるで永遠に延々と垂れ込める暗雲のような木々の隙間から射す光を浴びながら、ひっそりと世界に優しいまなざしを向ける少女。
 あるいは金色の体毛を持ち、人語を解し、ともすれば自ら物語り、口中に滴る血を好むが決して野蛮ではない、真の狩人であり森の王である、躍動する肢体が煌煌と輝く瞳が、そのすべてが震えるほど美しい獣。
 そんなことはありえない、と断じた今でも両者がともに暮らしていれば、と考えずにはいられないのだが、繰言はやめにしよう。信じたい気持ちは割り引かなければならない、と思う。だからこその譲歩だ。彼女たちに、たとえ一方とはいえ出会えるだけでも幸せだと思わなければならないのだ。
 はたして森の奥で目にするのは少女か獣か、あるいはその両方か?

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 さてこの語り手のない空想に、文章に、歯がゆい思いをされた方もおられよう。なるほど元よりそういう部分があるとはいえ、文法に光景にいささかの狂いが生じたのは事実だ。またそうまでして選択したこの形式にどれほどの意味があるのかという疑問にも答える術を持たない。

 誰が夢想し、誰にとって必要であり、誰がそう思わずにはいられず、誰が譲歩し、誰が考え、誰が思い、誰が目にするのか。誰が答える術を持たないのか。

 誰が、誰が、誰が?

 けれどもそれはこの話の結末にとっては些細なことだ。誰でも構わないし、その誰かはあなたの想像に委ねられた。そしてその想像は、イメージは、例の何者かが語った文章から引用するならば、「この表現から連想されるイメージは、限定されるために無限」 なのである。

 そしてその誰か、あなた方によって無限にイメージされるその存在にとって、おそらく一つだけ確かなことには──




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