読書案内:決闘裁判

中世ヨーロッパを中心に行なわれていた決闘裁判という習慣と、その周辺の神判(神意による判決)や法概念の変化、実際の決闘裁判の事例などを紹介し。その中に西洋の自決の精神と法概念の由来を見いだすという本です。

決闘というと、私的な殺し合い、つまり私闘として合法的ではないものを想像するひとが多いかと思います。西部劇とか三銃士風の決闘とかですかね。しかしこの決闘裁判というものは、私闘ではない、公の判決を決める方法として裁判の一巻として行われるものなのです。

ちなみに、どちらが正しいかを決定するために決闘を行うというこの決闘裁判には、いくつかのタイプがあって。当事者同士(原告と被告)が争う決闘、判決を下した人間にたいする抗弁としての決闘、証言した証人が嘘をついているか争う決闘とあります。判決よりも決闘のほうが上位に置かれていて、裁判の絶対性が存在しないあたりが、興味深いですね。封建制などで権力が強くなく、集団での私闘でもめ事の決着がつくような時代には、これでも理性的かつ損害の少ない方法だったようです。

中央集権体制の存在しないところでは、裁判の権威にたいする考えかたが違うということで。裁判は真実をあきらかにし、その採決は絶対である。というのは中央集権体制下の概念で。それぞれの独立性の高い場合には、判決を覆すことが慣習法的に許容されていて、その手段が決闘裁判であったという感じでしょうか。いろいろと興味深いところです。

ちなみに、のちには決闘裁判の代理人の専門家としての決闘士に代行させるというものも広まりまして。このあたりは、戦いの神の神官や騎士を考えるうえで、色々と参考になるかも知れませんね。決闘士そのものは農奴より低い扱いでしたけど……任務としては騎士の主への義務にも決闘の代行はあったようですし。

最後には。現代アメリカの訴訟制度が、武器による決闘のかわりに弁論による決闘のようものであり。裁判とは原告と被告のそれぞれが、自分にとって有利になるように戦う場であって、真実をあきらかにすることなどは二の次でしかない。そんな指摘がありまして。裁判とは権力が真実をあきらかにし正義を遂行することである、絶対者としての裁判所が正しく判断してくれるに違いないと期待するしそれに応えるべきだ、と認識しがちな日本人との根本的な違いを痛感させられます。

ゲームマスターの位置づけとかも、アリメカとは、このあたりの無意識の違いが存在するのかも知れませんね。

書誌情報
講談社現代新書『決闘裁判 ヨーロッパ法精神の原風景』山内進 IBSN4-06-149516-X 本体価格680円 2000年08月発売
語り部日報掲載日
2000/09/03
文責
sfこと古谷俊一
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