[KATARIBE 16043] [HA06N] :「前略、月待坂から」満月

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Date: Wed, 27 Oct 1999 09:50:47 +0900
From: "E.R" <furutani@mahoroba.ne.jp>
Subject: [KATARIBE 16043] [HA06N] :「前略、月待坂から」満月 
To: kataribe-ml@trpg.net
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99年10月27日:09時50分41秒
Sub:[HA06N]:「前略、月待坂から」満月:
From:E.R


     こんにちは、E.Rです。

 と言うわけで満月です。
 ……書くのは三ヶ月、流すのは10日………

************************************
満月:月晶瓏音
-------------

   「ねえ英一、花澄」

     あれは一体、何年前のことだろう。

   「なあに、おばちゃん?」
   「あんたら、あたしが急にいなくなったら、どうする?」

     今から考えれば……あの時、沙都子叔母は、今の自分と大差無い年
     齢だった筈だ。

   「……急に?」
   「そ」
   「…………それって」

     兄妹は顔を見合わせて、それから真っ直ぐ叔母を見る。

   「怒るっ」

     異口同音の反応に、叔母は苦笑した。
 
   「そこで、泣く、とは言わないのねー、あんた達はっ」
   「……だってぇ……」

     口をとんがらして、何か言おうとした二人の頭を、叔母はくしゃく
     しゃと撫でた。

   「いーの、それで」

      ………あれは、いつのことだったか……


 それも、また、夢にしか現れないほどの。
 多分……昔の話で。



 花澄の背中の傷は、それでも一日で塞がった。

「……一人で行けるのに」
「るさい」

 一日、昏々と眠り続けた。
 目を醒ましたのは、もう、十四日の月が高く登りつめた時刻だった。

「……帰ってこい、とのことだったぞ」
「え……?」
「ばーさまから」
「って……今、これから?」
「明日の朝で良いってさ」

 『急の用事で、今日は休みとします』と書かれた板が、硝子戸の内側に所在
なげにぶら下がっているのを、花澄は振り返って眺めた。
 微かに揺れているのが……ひどく、さみしいものに見えた。

 月待坂に戻ってくるように、と、祖母……老いた風見が命じた。
 一緒に行く、と、兄が言った。


 ほたほたと、一足ずつ落っことすような、どこか力のない足取りで、花澄は
月待坂を登る。
 道の脇に、艶やかな緑の葉。
 そして、膨らんだ、白っぽい蕾。

「……今日、満月だね」
 うん、と、先を歩く兄が、頷いた。


 ………どうして?
 ………どうして、沙都子叔母は
 ………どうして、沙都子叔母は、翼を捨てたの?


 問いに返る、答はない。


「お帰りっ」
 それでも、戻った先、歓迎の言葉は混じりけ無しの本物だった。
「わー、お兄ちゃんも来たんだっ」
「いかんか?」
「ううんっ」
 ぶんぶん、と、首を横に振って。
「英一兄ちゃん、キャッチボールやろうっ」
「こーら待て学っ」
 するん、と、玄関先から靴に足を滑り込ませ、そのまま英一の腕を引っ張る。
その少年の頭を、姉がこつん、と一つ叩いた。
「いってえなあ、姉ちゃん」
「いってえ、じゃないわよ。英一兄さんも花澄さんも、ご飯食べてないでしょっ」
「あ」
「……いいよ」
「よかないですっ」
 じろっと睨む目つきが、母親に良く似ていて。
「かーさんから。二人ともご飯用意してあるから、まず食べてくださいって。
遊ぶのはそれからだからね、学」
 ちぇー、と少年が口を尖らせた。

「………それで」
「え?」
「何か、見つけた?」
 味噌汁、ご飯、鰯の味醂干しに茄子の浅漬け。
 非の打ち所の無い朝ご飯を、けれども花澄は殆ど食べなかった。
 叔母も、祖母も、さらりとそれを見て見ぬふりをした。

「沙都子の残したもの。花澄ちゃんは見つけたかね?」
 祖母の部屋。大きく開け放した窓から緩やかに涼しい風が吹き込む。
 ぽん、と足を投げ出して座っていた花澄は、ちょっと困ったように首を傾げ
た。
「見つからなかった?」
「………わかんない」

 嫦娥の翼。
 それを、沙都子叔母の置き土産……とは。
 思いたくなかった、というのが本当かもしれない。

「嫦娥の翼、ねえ」
「おばあちゃん、知ってる?」
「おばあちゃんはね、知りませんよ」
 笑い皺に囲まれた目元を、やはり笑いで和ませながら祖母はそう答えた。
「……そっか」
「沙都子のほうが、おばあちゃんより風見としては強かったもの。花澄ちゃん
は尚更」
「……強くない」
 抵抗一つ出来なかった。
 嫦娥の翼を植え込まれる……その痛みと嫌悪感に、花澄は微かに身を震わせ
た。
「……でもねえ」
 ふと、祖母が首を傾げた。
「花澄ちゃんがそうまでして厭な思いをしてるんなら、それは沙都子の言って
たものじゃないわねえ」
「……おばあちゃんも、そう思う?」
「そりゃあ、そう思いますよ」
 年老いた風見。その長い一生を、風見として生き切った。
 その言葉の、重み。
「大丈夫ですよ、花澄ちゃん」
「……うん」
 溜息のように、花澄はそう応じた。


「おばあちゃんごめんっ……かーすみお姉ちゃんっ」
「はい?」
 予告と障子の開くのとがほぼ同時である。
「お姉ちゃん、今日、花火しない?」
「えっと……」
「ああ、それはいいねえ」
 花澄の機先を制するように、祖母がそう言った。
「お姉ちゃん、何の花火が好き?」
「………線香花火、かなあ」
「線香……あの小さいの?」
「うん」
 学はちょっと首を傾げたが
「うんわかった」
 言うなり、またぱたぱたと走っていった。じきに玄関の方から、お財布どこ、
と、声が聞こえる。
「……おばあちゃん、でも」
「あのねえ、沙都子が、花澄ちゃんに受け取って欲しかったんでしょう。逆じゃ
なくてね」
「……うん」
「ならば、見つけられるようにするのは、沙都子の責任ですとも」
「でも……」
「大丈夫」
 すとん、と、胃の腑に落ちるような、声。
 それは、確かに……長い長い時を、有無を言わさず越えてきた人の、声。
 花澄の口元に、微かな苦笑が浮かんだ。
 苦笑すら……呑み込むほどの懐の大きさを、静かに実感しながら。


 沙都子叔母の部屋は、しんとしていた。
 花澄は、ぺたりとそこに座り込んた。

「……花澄ちゃん、あなた少し寝なさいな」
 叔母が、心配そうにそう言ったのだが。
「でも、まだ、見つけてませんから」
「だけどあなた、顔真っ白よ」
「……大丈夫です」
 それでも笑ってそう言った花澄を、至極疑わしげな目で叔母は見ていたが、
「……………まあ、いいわ」
 溜息と一緒に、そう吐き出した。
「沙都ちゃんの部屋は、何も動かしてないから」

 立ち上がり、庭に面した窓のカーテンを引き、窓を開ける。
 開けた手元から、さあ、と風が流れた。流れた風は、手から肘、そして花澄
の脇を摺り抜け、彼女の後ろの本棚へと向かい、そのまま跳ね返るようにくる
りと彼女の手元へと戻ってくる。その流れを何の気無しに追った花澄は、ふと
首を傾げた。
「……あれ…」
 戻った風が、すうと彼女の手に沿って跳ね上がる。
 その先、カーテンレールの下辺りに。
「こんなの、あったっけ?」
 小さな、先の丸くなった釘が三本並べて打ち込んである。位置からすれば風
鈴か何かをぶら下げていたのか……
……いや。
 ポケットからそっと紺の包みを出す。そこに並んだ三本の細い水晶と、それ
を結ぶてぐすの糸。その先は、小さな輪になっている。
 暫くそれを眺めていた花澄は、真ん中の釘に輪を引っかけ、後の二本の糸を
左右の釘に絡ませた。
 そして、得心した。
「……成程」
 窓の中央、風の入り口に水晶がぶら下がることになる。
「風鈴みたいになるんだ」
 庭からの陽光が、薄く水晶を通して差し込んでくる。形も太さも微妙に異な
る水晶三本が重なり合って、微かな音を立てる。三本の釘に分けて下げてある
為、水晶同士に十分な隙間があり、高い余韻が消えることなく響き渡る。
 すう、と。
 音に聞き入る。
 余韻に聞き入る。
 聞き………入る。

 耳を澄ませる。
 心を澄ませる。

  りいいん、と。
  淡い、音………………


「…立ったまま眠るほど疲れてるなら、さっさと眠りなさいね」
 苦笑混じりの叔母の声に、花澄ははっと目を開いた。
「……え」
「窓際で立ったままふらふらしてるんだもの。ほら」
 腕を引っ張られて部屋から出る。結希乃が母親の言葉に笑いながら床を延べ
てくれる。
「いーから、花澄さん、寝てて。夜付き合ってくれないと、学また拗ねるし」
 逆らうに逆らえないまま、すとん、とそのまま眠りの中に落ち込んで………


 ……てんてん、と。
 ………転がる、夢。

 …………ねえ
 …………ねえ、英一、花澄。
 …………ねえ、田毎の月を取りに行こうよ………

       沙都子叔母の、笑い声。
       からりと、いつも澄んだ。
       遠く、余韻のようにそれが響いて。

 ………………ねえ
 ………………ねえ、花澄
 ………………田毎の月を、取りにおいで…………



「そう言えば、満月にここに来るのは久しぶりでした」
 英一が縁側に座り込んで外を眺めながら、低く笑ってそう言った。
「そうだったねえ」
 その横で、祖母が蚊取り線香に火をつけながら頷いた。
「じゃあ、あれも久しぶりだねえ」
「はい」
 頷いた英一の視線の先に、ほの白く光る花が咲いている。月に良く似た、微
かに灰色と黄色を加えたような、色合いの花。
 月花が、咲いている。
 これから三夜の間、月花は咲く。月が中空に登る頃、花は浮き上がり、互い
に飛び交う。濃い黄色の花粉を撒き散らしながら。
 風媒花でも無く、虫媒花でも無い。月花は己が飛びながら、互いに受粉する
のだという。まあ、非常に効率が悪い話だが、あまり効率よく結実して増えら
れても困るしね、とは、結希乃の言である。
「まだ、飛ぶには時間がありますかね」
「もうすぐ。あの松の枝を越えたら大概飛び出すんですよ」
「へえ」
「今日は風も具合がいいしね」
「……具合良くないよー」
 聞きつけて、縁側のすぐ先で花火を抱えていた学が口を挟んだ。
「なんで」
「なんかさ、風があちこちから吹くんだ。火が付けるたんびに消えるんだ」
 口をとんがらしてそう愚痴る従弟を、苦笑して英一は見やったが、
「どれ、貸して……ああ、そうか、学、台所、お母さんから出来るだけ大きな
空缶貰ってこい」
「空缶?」
「うん、その中に蝋燭を立てる」
「あ、そっか」
 納得すると動きは早い。つっかけをたっと脱ぎ捨て……かけて、祖母の視線
に気がつき、慌てて上がり口に揃えて脱ぐ。そのまま台所に走っていくのを、
丁度台所のほうから来た結希乃が首をひねりながら見やった。
「英一兄さん、学、何取りに行ったの?」
「空缶。ちょっと風があるからね」
「へ?風、吹いて……ああそっか、今日は満月だった」
 月花の咲く日には必ず風が吹く。それ以外の日であれば、多少の融通を風達
も利かせてくれるのだが。
「じゃ、しょうがないっと……あ、花澄さん」
「はい、バケツ」
 水を張ったバケツを差し出して、花澄が笑った。
「結希乃ちゃんのお母さんから。花火は全部この中に入れなさいよって」
「了解っ」
 結希乃の声と重なって、学の足音が近づいてきた。

「どれ……」
 英一が蝋燭を取り、火を付ける。蝋を缶の中に垂らし、その上に蝋燭を立て
る。炎はすっくりと缶の中で伸び上がった。
「これで良いだろ」
 それを、縁側の端に置く。花澄がバケツを縁側の外、上がり口の石の横に置
く。
 月が、ゆっくりと松の枝を越した。

 ひう、と、その時。
 風が、鳴った。


「……………!」
 三人の風見が、顔を上げた。

  …………………揃うた!

 ぼう、と、空気を呑み込む火のような。
 たあんと、滴る水のような。
 ごう、と、地鳴りのような。
 ぼう、と、耳元で鳴る風のような。

 その響きに、少しずつ重なるように。

「なっ………」
 学が大きく目を見開いた。
「学、あんた聞こえるの?」
「聞こえるっ」
「俺にもだ」

 りいいい、と、それは高い音で。

「あ………っ」
 不意に、花澄が動いた。跳ね上がるように縁側に登り、そのまま走ってゆく。
どうしたの、と、叔母の声を聞き流し、襖を幾つも跳ね開けて。
 沙都子叔母の、部屋へ………

 高い音。音。
 重なり合う音と……これは光?
 襖の隙間から、零れる……………

 からり、と、襖はあっけなく開く。
 その、中に。
「………!」

 ぱしんと、襖を叩き付ける音に。
 りいいんと、もう一つの音が重なる。
 窓口に掛けたままの水晶が細かく震えながらぶつかり合い、幾重にも音を重
ねてゆく。その音が泡立てるように、細かい光の飛沫が水晶から弾け、広がっ
てゆく。
 音が重なるように。
 光が、重なる。
 幾重にも、まるで薄い層のように。
 重なり合い、広がり、壁にぶつかり、はじけてゆく…………


 笑い声が、した。

  どこかで聞いた、笑い声だった。
  まだ高い、子供の笑い声。

 弾ける光が、部屋の中一面にぶつかり、またそこから光を生み出してゆく。
 まるで、共鳴するように。
  薄暗かった部屋一面が、今は真昼のように明るい。

  その、光の中に。
  ふと、残像のように。


「……………さとこ、おばさん?」

  子供。
  お河童に切った髪を揺らす、まだ幼い子供。
  子供は、笑っていた。

「………さとちゃん」

 ぽつり、と、耳元で、叔母の声を聞いた。
 振り返った花澄の視線の先で、叔母は呆然として立ち尽くしていた。

  笑い声。
  高く、響くような。
  古い、鬼海の家に、響き渡るような。

   木霊。
   こだま。

  少女は身を翻すなり、ぱたぱたと走っていった。

「さとちゃんっ!」
 思わず、という風に手を伸ばした叔母の指の先で、一度少女は振り返った。
 あはは、と、やはり高い笑い声が響いた。
 不思議なほど………明るい、無邪気な声だった。

  そして。
  少女が光のように弾けた。


「………これは」
 何時の間にか、皆が沙都子叔母の部屋へと集まっていた。
 否、集まろうとして、そこで足を止めていた。

 古い家一面に、響き渡る、笑い声。
 それは色々な高さの声。
 高い、子供の声。少し低い、少女の声。
 そして聞き慣れた、笑い声。
 共鳴する笑い声、共鳴する光。

  そして、弾ける光ごとの余韻のように、現れる朧な姿。
  かつて、沙都子叔母の姿だったもの。

 ざん、と、風が流れた。
 水晶が一際高い音色を奏でた。
「……風貴」
 始まりと終わりの在る風。呼び声に応えて少年の姿をした風は、ふわりと部
屋の中央に現れ、花澄に相対した。
「これは……何?」
 少年は、微かに目元を和ませた。

 ………これは、過去
 ………この家に残る、過去の残像
 ………この家に刻まれた、沙都子の過去の残像

 何時の間にか、祖母が部屋の入り口に立っていた。
 微かに目を細めて、祖母は幾つもの幻を見やっていた。

 銀縁の眼鏡。いつもきっちりと結ってある三つ編みの髪。
 高く低く鳴る水晶の音。
 高く低く弾ける、光の渦。

 光は部屋を満たし、通じる廊下を満たし、隣の部屋の白い壁の上で弾け、ち
らちらとした残像を生じている。淡い灰色と、黄色を混ぜた月の色の光。

 ………沙都子が、願ったこと
 ………沙都子が、望んだこと

 少年はふわりと頭を巡らして、幾つもの残像を視線で示した。

 ………沙都子の、残像
 ………沙都子の、記憶

 光の波が押し寄せるように。
 しゃらしゃらと、泡立つような音が押し寄せるように。
 流れ来る、過去。


 と……………

 ふと、花澄は目を見開いた。
 幾重にも重なる、沙都子叔母の記憶。そのどれもが等しく懐かしいものの筈
であるのに。
 その中に一筋。
   ………現実味?奇妙なほどの存在感?
 出来るだけゆっくりと、視線を巡らせる。叔母の肩を過ぎ、祖母の背後を過
ぎて………

「さとこ、おばさん?」

 押し寄せる光の波の源に程近い壁の前に、すう、と色が凝った。
 風の少年の白い顔が、瞬時凍り付いた。

 ………………さとこ?

 それは。
 見慣れた姿だった。
 銀縁の眼鏡。きっちりと結った髪。化粧っ気の無い顔。口元には苦笑らしき
影がこびりついている。目元を微かに細めて。
 こちらを見ている、姿。

「沙都子」

 祖母の、静かな声。静かな確認。
 沙都子叔母は、微笑った。

 ……………まさか

 呆然とした、声が花澄の耳朶を打った。

 …………まさか、だって……

 少年は、呆然と佇んでいた。細く、後ろで結わえた髪だけが、ふわり、とは
ぐれた風を孕んで揺れた。

 …………だって、沙都子は…………

 ざあ、と、風がのたうって流れた。
 視線の先で、沙都子叔母は少し困ったように笑っていた。微かに眉根に皺を
寄せ、柔らかく口元に笑いを含むようにして。

 ああ、これは本当の沙都子叔母だ、と。
 その笑みを見て、花澄は確信した。
 
  そして、かたん、と、
  支えていたものが崩れ落ちた。

「………おばちゃん」
 すい、と、透明な視線が花澄のほうを向く。
「おばちゃん」
 視野を占めるのは、ただその視線のみ。穏やかな、ゆうるりと動く海のよう
な。
 全ての疑問を呑み込んでゆくような。
「何で、逃げなかったの」
 ……だから。
「何で、飛ばなかったの」
 …………だから、投げつける。
「何で………何でっ」
 疑問。凝るような……心の重くなるような。
「何で、おばちゃん、人のままでいたの?何で人を選んだの?……何で……」
 それは、自分のせいなのか。心に掛ける相手、その為に彼女は人であること
を最後まで選び、心のままに飛ぶことを諦めたのか。
 声に、出そうとして、けれども果たせなかった。声にだし、確信してしまう
には、その事実はあまりに辛かった。
 行き場を喪った声の代わりに、花澄は片手を畳に叩き付けた。
「…………なんでっ………!」

 すう、と。
 その時、細い姿が動いた。
 半ば透き通る影のような姿が、前進し、しゃがみ込んだ。ぺたんと座り込ん
でいた花澄と視線を合わせるように。
 微苦笑。
 幾度も幾度も、その顔の上に浮かんでいた表情を、花澄は呆然として見あげ
た。

 化粧っ気のない口元が、ゆっくりと、動いた。
 微かな、呼気。そして、吐き出される。本当に微かな、小さな音。

 言葉。

「かすみ」

 耳を澄まさなければ、聞き取れないほどの、小さな声。

「ゆけ」

 ゆけ───────────────────                                       


 ゆけ、行け、征け、逝け、理屈は知らぬ、未来も分らぬ、どうして、何故、
何故に、そんなことは知らぬ、そんなことは分らぬ、理不尽も、つらさも、
いたみも、全て予測、全て事実、理は通らぬ、それでも、それでもなお、全て
を越え、全てを過ぎ越して。


────ゆけ────────────────────                               


 思いに跳ね飛ばされることを、花澄は実感した。


    かすみ
    かすみ
    たごとのつきを、とりにおいで…………


 笑い声。
 ひどく澄んだ、ひどく懐かしい。


    どうして、なんてあたしもしらないよ
    どうして、なんてこたえることじゃない
    でも、あたしはいきたから
    かすみも、いきてごらん

 ああ、そういうことなのだ、と。
 悟る。
 すとん、と、腹の奥深くに落ち込むように。

 理ではなく。
 何を掴み、何を知って、それが出来たかは分らずとも。
 それでも、生き切ったひとがいるのだから。


 視線の先で、沙都子叔母は、今度こそ莞爾として笑った。

 と。
 ふう、と、風が揺らいだ。
 揺らぎにつられたように沙都子叔母の視線が動き、周りの一人一人を撫でた。
 そして、その視線をふと止めた

 ………沙都子

 柔らかく大気が膨らみ、音と化したような声。

 …………沙都子

 のばされる小さな少年の手を、暫し沙都子叔母は眺めていた。少し躊躇うよ
うに、すこし困ったように。
 躊躇いを読み取ったように、少年は小首を傾げた。少し躊躇うように、すこ
し困ったように。

 ほんの、少しの間。

 そして。

 ふい、と。
 沙都子叔母は、笑った。

 それはやはり見慣れた、悪戯っ子を思わせる笑い。生き生きとした、人を惹
きつけずにはおかない笑み。
 笑みを浮かべたまま、勢いよく彼女は手を差し伸べ、小さな手をとった。

 とった手が、ふっと一瞬、輪郭をぼやかせて。
 そして……解けるように崩れた。

 始まりと終わりのある風の、その始まりと終わりを溶かしたように。

 けれども不思議なことに、少年の笑みは消えなかった。否、絡まった糸の解
けるように消えて行った後にも、その少年の笑みはやはり弾ける光に織り込ま
れたように、沙都子叔母の傍らに在った。その視線が花澄の上に動き、一度だ
け、瞬いた。

 そして………少年は、そのまま、溶けた。
 
 風は、沙都子叔母の手に絡まるように一度渦を巻いた。
 ざらり、と。
 

 そしてまた、ゆるやかに頭をめぐらして。
 沙都子叔母は、やはり笑ったまま、花澄を見た。
 花澄を、英一を、そして長年懐かしみ、共に暮らした人々を。
 ふ……と、笑みが歪んだ。あと少し傾いだら泣き顔になりそうなバランスを、
けれども彼女はやはり溢れるような笑いで元に戻した。

 微笑。
 それが、ゆっくりと膨れ上がって。
 はっきりと、笑いと弾けて。

 たん、と、彼女は頭を一度振った。何かを吹っ切るように。
 悪戯っ子のような、どこかしたたかな、そして豊かな笑みを浮かべて、最後
に沙都子叔母はもう一度、花澄を見据えた。

─────ゆけ!                                                                   

 辛さでもなく、義務でもなく。
 あふれるような笑いに満たして───────────────────        




 りいん、と、名残のように水晶が鳴った。


「………花澄ちゃん」
 ふ、と。
 それもまた、老いてなお涼やかな風に似た声。
「花澄ちゃん」
「……うん」

 頷いた途端、堰を切ったように涙が零れた。
 押し流すように。
 ふと、そんな言葉が浮かんだ。


 何時の間にか、灯の消えた部屋の中に、月花が幾つも浮かんでいた。



************************************:

 という、わけで。
 むー。
 結論が出せる話でもないので、出来るのはこの程度です(苦笑)

 
 次の便で、終章、送ります。
 
 ではでは。





    

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