[KATARIBE 16019] [HA06N] :「前略、月待坂から」十三夜

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Date: Tue, 26 Oct 1999 10:53:49 +0900
From: "E.R" <furutani@mahoroba.ne.jp>
Subject: [KATARIBE 16019] [HA06N] :「前略、月待坂から」十三夜 
To: kataribe-ml@trpg.net
Message-Id: <199910260153.KAA13641@www.mahoroba.ne.jp>
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99年10月26日:10時53分26秒
Sub:[HA06N]:「前略、月待坂から」十三夜:
From:E.R


    こんにちは、E.R@隙ありっ です。
#いあ、検討会が午後にずれたので(汗)
#うう、ぐらふが描けない〜(滅)

 とりあえず、十三夜流します。
 以前書いた短編が、ここに絡まってまいります。

************************************
十三夜:嫦娥の翼

 目を開けた時には、カーテンの隙間から漏れる陽光がすっかり明るくなって
いた。
「………わ」
 枕元の時計は、既に九時を廻っている。
「って………起こしてくれればいいのにっ」
 襖の向うで、動く気配がある。既に兄は、行動を開始しているのだろう。
「……………皆も」
 自然、声が恨めしげになる。
 さわ、と、風が流れた。


 昨日から今日にかけて。
 八時半から始まった酒盛りである。そう遅くまで飲んでいたわけではない。
それにこの兄妹、呑む量が並みではない。ついでに、後に残らない、という点
でも、並みではない。四大がこっそり細工してるんじゃないの、と、昔沙都子
叔母が笑ったものだった。
 だから、寝坊したのは一概に酒のせいとは思えない。どちらかというと、十
日余り叔母の家で過ごしたことのほうが効いている。親戚とはいえ、十年ほど
も会わなかった相手である。気がつかぬままにかなり気を張って過ごしていた
らしい。


「……一言、声かけてくれたら起きるのに」
 ぼやきながら着替えて、周りを片付ける。台所に向かうと、昨日の肴の残り
と、豆腐の味噌汁が並んでいる。
 ぼんやりとそれらを眺めていると、どうやら店の用意の終わったらしい兄が、
ひょっこりと頭を出した。
「起きたか」
「うん……すみません」
 うん、と、生返事をしながら、兄は首を傾げた。
「で、お前、今日はどうする」
「沙都子叔母ちゃんの部屋、見ていい?」
「……探し物か」
「……それだけでもないけれども」
 奥歯に何やら挟まったような物言いに、けれども兄は苦笑して、台所の片付
けだけは先にしてくれ、と言った。


 台所から、ほんの数歩の廊下を抜ける。
 それこそ、大した距離ではない。
 けれども、その間にある奇妙な壁のようなもの。風見故に捉えることの可能
な、気配の層。積極的に何かを遮るほどの強さは、しかしそこにはない。
「…………」
 そっと襖を開ける。と、どこかしら淀んだ空気が、どろりと隙間からこぼれ
てくる。
 かびたような匂い。
 無言で、花澄は首を傾げた。
 所詮は古い家の、それも襖一枚の間仕切りで他と隔てられているだけの部屋。
それも、他の部分はしっかり人が住んでいる状態なのだ。
 ここまで、空気が淀む筈が無い。
「………誰かが、やっているの?」
 問いに、答える声は聞こえない。それがますます違和感を呼び起こす。
「……………どうして?」
 ふわ、と、宙を仰ぐ。困ったような溜息が、耳元をかすめる。
『…………問うな』
「問うても、答えられない?」
『………………』
 やはり、返事は無かった。
「……じゃ、私、ここに入ってはいけないの?」
 どうやら四大……恐らくは風が護っている部屋。そこにずかずかと踏み込む
ほどに、花澄も礼を知らないわけではない。
『いや』
 濁った空気はそのまま足元にわだかまり、どろどろと廊下に溜まってゆく。
それとはまた別の風が、促すように花澄の髪を揺らす。
『入るが、良い』
 その言葉のまま、花澄はすう、と手に力を込め、襖を大きく開いた。やはり
どろどろと動きを止めた空気が、その合間から零れ落ちていった。

 六畳一間の、さまで大きくない部屋。ぎっしりと本の並んだ棚と、筆立ての
乗っかった机。数枚の手紙がその上に載っている。
 その全てが薄ぼんやりとした中にある。
 花澄はふと目を細めた。
 カーテンの引かれた、部屋。勿論明るいわけはなかったが、それにしても夏
の日中、こんなに薄暗くなるものだろうか。
 うっすらと、風。

「……風貴?」

 部屋の真ん中で、不意に風が凝った。
 少年の姿の風は、ふい、と、宙に浮いたまま、こちらを眺めていた。
 どろりと、やはり淀んだような瞳のまま。

「風貴……でしょう?」

 こくり、と、風の化身が首を縦に振った。
 振って、頭を上げる。その瞳に、わずかに強い光を宿して。

 ……今晩……
「え?」
 ……譲り渡すものがある
「……沙都子叔母の、もの?」

 瞬時、風貴の顔が引き歪んだ。

 ……そう言うても、宜しかろうさ

 さみしげな、声。
 途端に、風がざん、と、切り込むように流れた。淀んだ空気を切り裂き、押
し流すように。

 ……そう言うても、宜しかろうさ

 玉を思わせる目が、花澄を見据えて。

 ……お前。
 ……沙都子の……最後まで気にかけていた、お前。

 ふう、と、哀しげな顔に見えた。

「……って……」
 ……沙都子は、逝ってしまった
 
 ぽつりと。
 その言葉を最後に、少年の姿は風と変じて散った。


「……ふうん」
 一部始終を聞いても、兄の表情は大して変わらなかった。
「じゃあ、今夜……って、どこで」
「……わかんない。その時になったら聞くわ」
「…そうか」
 そこでちょっと沈黙する。
「で、お前、これからどうする。外に行くか?ここに残るか?」
「……うーん……」
 花澄にしても、ここはあまり馴染みのある土地ではない。叔母がいる時に何
度も来たことはあるが、友人が出来るほどに頻繁にではない。大体がところ、
風見たちは人付き合いが下手と相場が決まっている。
 故に、行動の範囲は狭まってくる。
「本屋行こうかな」
「………おい」
「だって、ここで立ち読みしたら、殴られるし」
「そりゃそうだ」
「だから。確か駅の近くに大きい本屋あったよね?」
「………………」
 暫し宙を仰いで溜息をついた兄は、妥協案として、自分と叔母の蔵書を差し
出した。つまりどれ読んでもいいから他の本屋に行くんじゃない、ということ
である。
「何で」
「買うならここで買ってくれ」
「………それは、そうする積りだけど」
 花澄にしても多少の疑問がある。瑞鶴で本を買うつもりにはしているのだ。
それを知らぬわけでもないのに、何故そこまで留めるのか。
 そう問うと、案外あっさりと兄は答えた。
「ああ、お前が居ると、空調が無料になる」
「は?」
「お前の周り、自然空調が行き届いてるからな」
 あまりといえばあまりな理由である。
「……空調代、貰うよ」
「ほう、昨日の日本酒と酒のつまみ代、折半にするか」
「………」

 結局、兄の本棚から山と本を引き抜いて、店の片隅で読みながらその日一日
は過ごした。
 レジと奥の倉庫との間の、通路。一番目立たない場所に陣取って本を読む。
実際、日本語の本には飢えていたから、結構この時間は楽しかった。
「………おに……店長、すみません、この続きって」
「あ?……あ、それはまだ出てない」
「…何だ」
 瑞鶴の空調については、四大達に頼んだ。苦笑混じりにではあったが、四大
はその願いを叶えてくれた。
 何冊もの、本。自分がこの国を離れている間に出版された、無数の本。
 本と一緒に、時間が流れてゆく。


 呼ばれたのは、夕食の後、すっかり日が暮れた後だった。
 夕食を作り、兄がそれを食べる間、代わりにレジに立つ。その後、今度は自
分が食事を済ませ、また本を片手に瑞鶴に戻った時に。
 ざん、と、耳元で風が鳴った。
 風は、花澄の髪を揺らし、彼女の腕の先まで流れたところで失速した。
「……おにい……店長」
「…………ああ」
 花澄の顔を見た途端、状況を理解したらしい兄は、じゃ、そこに本を置いて
いけ、と、そっけなくそれだけ指示した。
 半ば宙に浮くような感覚の中、その言葉に従うと、花澄はそのまま店から外
へと出ていった。


 かたかたと。
 借りてきたつっかけが、足元で鳴る。
 その音が、妙に遠い。
「どこに行くの?」
 視線の先に渦巻く風。そして彼女の後ろから押す風。腕を取る風。
 返事は、無い。そして花澄も、それ以上は問おうとしなかった。
 さあさあと、風の音がする。水の国の、ひんやりと冷たい風。


 風に招かれて連れてこられたのは、瑞鶴からさほど離れていない小さな公園
だった。
 ぶらんことジャングルジム、そして砂場。キャッチボールをすれば、遊ぶ場
所を占拠してしまうことになる、ごく小さな公園。昔、沙都子叔母と一緒に花
火をしにきた場所。
 それくらいは、予期しているべきだったな、と、花澄は苦笑した。
「……それで?」
 ざわり、と周囲の木々が揺れる。頼りない街灯の光が一条、砂場の一角を照
らしている。
「何の、用?」
 十三夜の月は、既に中空に浮かんでいる。まだ円には遠い形は、東山魁夷描
くところの月に酷似している……と、考えて、花澄はふと吹き出した。
『どうしたね』
「ちょっと、本末転倒してた」
 月の明りは、けれども既に街灯よりもくっきりとした影を地面に描いている。
その影が風の吹くごとに細かく震える。しばらく屈み込んでそれを見ていた花
澄は、ふと、目を上げた。
「………風貴」
 ふう、と、少年の顔に笑みが浮かんだ。
 街灯が、二三度瞬いて、そのまま溶けるように消えた。


 ……お前

 少年の足は、地を踏まぬ。

 ……お前は、沙都子の最期の話を聞いたろう

「うん」

 ……急に病状が悪化した、と、聞いたか

「うん」

 ……だが、何故かは分からぬ、と?

「そう、聞いた」

 白い顔は、目だけで笑った。
 ひどく……歪んだ笑顔だった。

 ……理由を、知りたいか

「知りたい」
 それに、と、内心花澄は付け加える。たとえ私が知りたくない、と言っても、
貴方は話すのだろう、と。
 多少の皮肉混じりに。
 その皮肉の苦さが、花澄の表情から滲み出る。微かに苦い笑みを浮かべた彼
女を、やはり苦笑を浮かべて少年が見やる。

 ……御覧

 ふわり、と、丸く囲んだ両掌の中に、何か小さなもの。

「それは?」

 ……翼

 少年は、笑った。
 透きとおるような笑みだった。

 ……嫦娥の、翼

 ふわり、とその手が広がる。その広がるにつれて、手の中のものも大きくな
る。
 花澄は目を見張った。

「………翼」

 それは非常に奇妙な翼だった。
 柔らかな羽根の代わりに、薄い水晶の板を連ねて作られた、翼。形としては、
ダ・ヴィンチの落書きにある翼に、少し似ているかもしれない。薄片の間隙は
淡い光で繋がれ、一つの翼を形作っている。十三夜の月の光に、どこか良く似
たほの白い光。
 視線を、外すことが出来なかった。
 それほど惹かれた。
 と、同時に、二度と見たくないと思った。
 それほど……怖かった。

「……四大のものにしては、何だか人工的だね」

 ようやく、言葉を紡ぐ。少年は小首を傾げた。

 ……そうかね

 育ちきった翼をそっと抱くように手を広げて。
 風貴は、微かに笑った。

 ……そう……かもしれぬ

 ふうと、笑みが震えるように崩れて。

 ……これは、沙都子が作った翼

「……どういうこと?」
 どう、と、風が吹いた。

 ……嫦娥を、知っているだろう
「月に逃げた……っていう?」
 ……そう。不老長寿の薬を盗み、それを飲んで月まで飛んだ女

 くすくすと、おかしげに少年は笑う。

 ……人というのは大したもの。嫦娥の伝説から、真を紡ぎ出す

 ふっと月を仰いで。

 ……我等の佑け無くば、不可能ではあるがね
「……どういうこと?」

 謎かけのような、言葉。
 けれども急かせば、恐らく途中で途切れるだろう。

 ……これはね
 ……この翼は

 少年の広げた手を中心に、ゆるゆると風が渦巻きだしていた。本当にゆるゆ
ると、はじめは花澄の髪を微かに揺らす程度の。

 ……現世より逃れる為の翼

「え?」

 ……現世より逃れ、我等の界へと入る為の翼
 ……我等が月を紡いで作る翼
 ……我等が人と共に、紡いで作る翼

 翼が、ゆっくりと羽ばたいていた。
 その羽ばたきから、風が起こっているのかもしれなかった。
 糸杉の影が、大きくしなった。

 ……沙都子が真に望めば、死を見ずして我等の界へと至ることが出来た
 ……風見として、我等に近しい者として
 ……我等の元へ

「…………沙都子叔母は、望まなかった?」

 ふと、少年の白い顔が、空白を浮かべた。その顔に表情を刻むには、あまり
に強い想いが溢れてしまったとでも言うように。

 ……望む、と言った
 ……故に……渡した
 ……そして、沙都子はこの翼を紡いだ

 かっと、少年の口が裂けた。
 般若。女面の筈の表情は、しかし今の少年のそれに酷似していた。

 ……そして…沙都子は
 ……沙都子は翼を捨てた………っ…………

 きらきらと、瞬時彼の手元から、何かが零れた。
 まるで、翼の破片のように。


 ……お前
 ……沙都子が、最期まで案じていた、お前

 ああそうか……と、ふと、花澄は頭の隅で合点した。
 目の前の少年の顔は、自分に向けて、凄まじいまでの怒りを示している。
 しかし、と同時に、怒り切れない……ひどく切ないような色を含んでいる。
 だからこそ般若に似ているだ、と。
 ………他愛の無い、連想。

 ……沙都子は
 ……沙都子は最期に
 ……沙都子は最期に、人を選んだ

 ふう、と、怒りは溶けて消えた。
 悲しそうな顔のまま、少年は浮かんでいた。

 ……この翼は、我等によって紡がれる。しかし同時に、持ち主の命をも奪う
 ……沙都子が健康であれば………

 鋭いほどの、悔い。きりきりと食いこむような、銀の色。

 ……沙都子はね
 ……繰り返し、よくこぼしていたよ
 ……人の世は、なんと窮屈なものか。なんと縛り付けるものか……と

 少年の視線。
 深い……深い蒼の。

 ……けれども、沙都子は翼を捨ててしまった
 ……我等の元には、来なかった

 すう、と、少年の視線が澄みとおる。

 ……我は……喪った………


 抉られるような、いたみ。
 風貴の、いたみ。
 始めと終わりを持つ、ひどく孤独な風のいたみ。


 ……お前
 ……最期まで、沙都子が案じていた、お前

 ふと。
 風貴と、目が合った。
 その視線が…………ふと、歪むような気がして。
 切り裂くような不安に、花澄が一つ身を震わせた時。

 ……お前に
 ……お前にこの翼を

 持ち上がる腕。どこか残忍な笑み。

 ……お前にこの翼を与えよう

 ざん、と風が放たれた。

「……っ!」

 逃れようと、花澄は身をひねった。その肩を風が抑え、足を地が留める。釣
り合いを崩して、そのまま地面に崩れた、その背中に。
「………………っ」
 ぎりぎりと、何かが埋め込まれてゆく。何か、火のように熱い細いもの。
 悲鳴を堪えて、唇を噛み締める。
 痛みは根を張るように細く分れ、鋭く食い込んでくる。
 己ではないものが、己に根を張る、痛み以上の不快感。
 そして………相反する…………

                      ………………………狂喜?

   何故。
   何の故に…………

 のたうちまわるような痛みに、けれども動くこともならなかった。頭から足
の先まで押さえつけられている。唯一動く手の先が痙攣するように動き、土に
めり込み、握り締めた。
 ぐう、と、喉が鳴った。


 と……………

 ふっと、全ての圧力が、ほどけるように消えた。
 がくり、と、投げ出されるように、花澄は倒れた。ひやりと冷たい風が、汗
に濡れた全身を撫でるように吹いた。
 微かに、緑の匂い。


 ……お前
 ……沙都子が案じた、お前

 少年が覗き込んでいた。
 無限の恨みと、無限の愛おしさ。
 相反する感情が、流れ込んでくる。

 ……我は………お前を恨む
 ……我等は……お前を愛おしむ

 ………我は…………お前を無限に恨む
 ………我等は………お前を無限に愛おしむ

 ああ、と、花澄はぼんやりと考えた。
 ああ、そういうことか、と。


 風貴という個は……無限に己を恨むのだ、と。
 風は……風というその無数の顔は、無限に己を愛おしむのだ、と。


「……矛盾………してる」
 ぽつりと、呟く。
 少年が、一瞬目を見張り……そして苦笑した。

 ……そのとおり、やもしれぬ

 白濁してゆく意識を、花澄は必死に抑えた。

「……翼………」
 何か?、というように、少年が首を傾げる。
「つばさ……生えているの?今……」
 いや、と、少年は首を横に振った。

 ……今は……まだ
 ……根を深く張り、その芽も表には出てはおらぬ
 ……今は……まだ

 少年の手が、静かに花澄の額を撫でる。

 ……お前が
 ……お前がそれを望むならば
 ……お前が望み、我等の元に来るならば

 ぱたり、と、小さな手が離れる。

 ……嫦娥の翼は、月によって形となる。十三夜の月、十七夜の月。お前が望
   むのならば

「………それは……」

 かなしかった。
 ぽろぽろと、涙がこぼれた。
 かなしい理由は、わからなかった。

「……復讐?」

 少年は、しばらく動かなかった。
 そして、こくり、と頭を垂れた。

 ……我にとっては然り
 ……我等にとっては……然らず

 ぽろぽろと、涙が止まらなかった。

「私のせいだというの」

 ささくれ立つように、喉にひっかかる、声。

「沙都子叔母が人として残ったのは……私のせいだというの」

 答えは、無い。
 ただ黙ったまま、少年はこちらを見ている。

「私を案じた故だと…………そう、言いたいの?」

 叩き付けるように、問い掛ける。その鋭さを、少年はひどく生真面目な顔で
受け止めたようだった。

 ……それを、我も知りたいのだ
 ……それを、我等も知りたいのだ

 花澄はわずかに眉をひそめた。
 その表情を読取ったのか、少年は静かに花澄を見やった。

 ……お前達風見は、界の境を走るもの
 ……界と界の間の、幅の広い境を、ある者は人に近く、ある者は我等に近く
走るもの

 風見。
 風に親しみ、水に聞き、火に護られ、地に憩う。
 風見。
 見えるもの、聞こえるもの、皮膚に触れる感覚まで、それ全て人と異なる者。
 故に……確かに、その考え方、その判断、やはりそれ全て人とは異なる者。

「沙都子叔母は」
 ……我等に、近かったよ

 間髪を入れぬ返事だった。

 ……けれども沙都子は、お前達にも近かった
「私達………風見に?」

 少年は、莞爾として笑った。

 ……それが我等の知りたいところ
「どういうこと?」

 花澄はゆるゆると身を起こした。背中が痛むのを堪え、何とか座り込む。

「何を、知りたいというの?」

 真っ直ぐに、見上げる。
 少年は………少し首を傾げた。

 ……沙都子は、何の故に人の側に残ったろう
 ……風見の故か………人の故か
 ……人の世は
 ……沙都子を閉じ込めていた、人の世は
 …………残るに値する場であったか否か

「でも……でもそんなのっ」

 ……そんなの?

「沙都子叔母は、逃げない……最後まで逃げない人だもの。人の世が辛いって、
でも……でも逃げ出す人じゃ……」

 ……ほう

 少年の笑みが、再び般若のそれと化した。
 
 ……ではお前は、あの翼を何と見る
 ……沙都子の紡いだ翼を、何と見る
 ……人は、逃げぬわけではない
 ……如何に強きものでも、逃げようとはする
「でも……っ」
 ……現に

 にいいっ、と、口元が裂けるように半円を描く。

 ……風の国の聖典にも言うのではないかね?


      願わくば 鳩の如く翼を得んことを
      されば我 飛び去りて 安きを得ん……


「……この………っ!」
 声にあおられたように、少年はふわり、と浮き上がり、そのまま二、三歩後
ろに下がった。
 笑みが浮かぶ。からかう笑み。と同時に……慈しむ笑み。

 ……逃げるまでのことは、人の身。考えもし、企てもしようとも
 ……けれども……沙都子はこちらには渡らなんだ
 ……お前の言葉を使えば……沙都子は最後の最後で、逃げなんだ

 無念である筈なのに。
 しかし、その一瞬、彼の口元に笑みが浮かぶ。

 ……その所以を。
 ……我は、知りたいのだ
 ……我等は、知りたいのだ

 花澄は、ただ呆然として、彼を見やった。

 ……お前の不幸を、願うわけではない
 ……しかし、お前が……どうしても越えられぬ矛盾にぶつかった時
 ……それでも、人の世を選ぶか、我等を選ぶか

 ひう、と、花澄の喉が鳴った。

 ……それを、我等は知りたいのだ
 ……それを、我は知りたいのだ

「そんな……無茶なっ!」

 ……何が、無茶だろう
 ……逃げぬのだろう?
 ……お前は、逃げぬのだろう?

 残忍な。
 そう形容しても間違いの無い……声。

 ……逃げる為の翼があっても、その誘惑に負ける筈もないほど
 ……お前は、強いのだろ
「黙れっ!」

 ざん、と、風が鳴った。
 そのまま花澄を中心に、風は激しく渦を巻く。長い髪が流れに引きずられる
ように大きく流れた。
 砂埃。ざあ、と、宙を舞う小さな飛礫。
 思わず目をつぶった花澄の耳元に、透き通るような笑い声が届いた。

 ……嫦娥の翼、確かに届けた
 ……我等の翼、確かに届けた

 そして、りいんと鳴り響くような、声。

 ……………忘れるまいぞ

 それは、無限に愛しむ声。
 そして………無限の壁を隔てた声……………



 ざっ、と、地面を蹴る音に、花澄は目を開いた。
「………どうした」
「あれ…………」
「何があった」
 黒ぶちの眼鏡をかけた顔を見て、花澄はほっと息を吐いた。
「嫦娥の翼を」
「え?」
「背中に………お兄ちゃん、背中、どうなってる?」
「背中?」
 怪訝そうな声。背中に触れる手。そして小さく押し殺された、けれども驚き
を示す声。
「………お前、花澄」
「痛いんだけど」
「……何があった」

 突き出される指は、暗い中、それでも確かに暗色に染まって見えた。
 くふ、と、小さく喉を鳴らして、花澄は目を閉じた。

「花澄っ」
「……お兄ちゃん」
 ざらざらとした感触の、土。そしてそれを湿す水。それがゆっくりと体内に
染み込んでくる。
「あんな風に言ったけど………叔母ちゃん、どうして逃げなかったのかなあ」
 ぼんやりと、霞のかかるような意識は、けれども執拗に一つの問いを問い続
ける。
「どうして………」
 ぐるぐると、周り続ける問い。それがゆっくりと渦を巻き……白熱し。

「どうして………」

 そして………破裂した。
 白い光に呑み込まれるのを、意識野の中でひどく冷静に見ている自分の破片
を、花澄はやはりどこか冷静に確認していた。

「どうしてなのか、わからない」

 ……お前、あの時、人間辞めてたろ
 後に。
 ただ一度だけ、兄から、そう評された。
 実は本人としてみれば、そんな意識はない。人でない部分と人である部分と
は、そうすると案外滑らかに繋がっているのかもしれない。

「花澄」
「どうしてなのか、わからない」
 繰り返す、声。
「どうして、沙都子叔母ちゃんは、最後まで人間を選んだろう。どうして風に
ならなかったろう。……どうして」
「花澄っ!」
「だってわからない」

 きいん、と、意識野が澄みとおる。その中で一点、凝ったように燃え上がる、
問い。

「逃げたって、誰も不当に思わない。……翼があったのに。飛ぶための翼があっ
たのに」

 飛びたかったことだろう。
 この翼を羽ばたかせれば、きっと大きく風を抱き、ふわりと宙に浮いたろう。
どこまでも飛べたのかもしれない。
 それを、今の自分が実感している。
 そして多分、沙都子叔母も……実感した筈なのだ。

「何故、翼を捨てたの?」

 ……何故?

 木霊のような、声。木々の間を通る、風のような。

 ………………それを、我が知りたいのだ………



 花澄の記憶はそこで途切れている。

****************************************

 というわけで。

「封印〜翼のあるクマ」という短編を以前書きましたが、
そこで、『嫦娥の翼』が出てきたのは、そういうわけです。

 ……ああしかし、これ書き終わって、頭抱えたなあ(しみじみ)
 予定の結末まとめて壊しやがってーーっ>風貴
 夜のシーンは、本当に一気に書いたんですが、あーゆー時って本当に
筆がすべるとゆーかキーがてけてけ走ってゆくというか(汗)

 というわけで、次は満月です。
 
 ではでは。




    

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